鰭ヶ崎三本松古墳の変貌

この写真は、2009年9月20日の鰭ヶ崎三本松古墳です。

02鰭ヶ崎三本松古墳2009年9月.jpg

関連ブログ記事(画像元)...東葛人さん断腸亭さん横山さん
5年前とのあまりの変貌ぶりに、息を飲んでしまいましたが・・・伐採されたのはつい最近です。



この動画に収めた三本松古墳からの眺望を見れば、ここに古墳を築いた理由がよくわかります。
但し、今見えるのは、首都圏のどこにでもあるような、家並みの連続。

05鰭ヶ崎三本松古墳2014年9月03.JPG

04鰭ヶ崎三本松古墳2014年9月01.JPG

三本松古墳は、流山市最大の前方後円墳ですが古墳として残す予定はないそうです。あくまで市指定の史跡は、写真左に見える石碑⇒【鰭ヶ崎三本松古墳の碑(下総国鰭崎邨古冢碑)】
近年の豪雨による土砂崩れをを考えれば、これだけ削り取られちゃった崖では、致し方ないのでしょう。まぁ、小さな見晴らし台付きの公園くらいにはなるのかな?

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しかし、この角度から見える思井や芝崎の森はこれ以上削らないで欲しいなぁ
「どうしてぇ?全部削って住宅地にしちゃえばいいじゃん♪」 byローラ風味

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高校三年間
私は自転車通学でこの道を通り、三本松古墳の前を通過して小金高校に通っていました。

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ボーイスカウトの森近辺もこんな風になちゃって、もう西平井の森は壊滅状態です。
「そっかぁ♪じゃあ、また木を植えればいいじゃん♪」 byローラ風味

彼岸花2014年.JPG

心を慰められたのは、ローラの言葉じゃなくて^^;
西平井と同様に道が全然変わってしまった市野谷の畑にひっそりと咲いていたハート型の彼岸花(タカギファームさんの畑だそうです)

一番変わってしまったのは、十太夫の森(かつてのふくろうの森と呼ばれた森)。
木々は9割消失し、裏道(旧道)もまったくつながらなくなり、造成中の行き止まりばかり。
ポツポツ立ち始めた集合住宅や戸建て分譲用地をみていたら、なんだかやっぱり首都圏のどこにでもあるような街の風景になりそうだなぁ。

流山ポタ.JPG

でもこの変貌は今に始まったことでなく、首都圏衛星都市の宿命でしょう。
次記事で40年前と、現在の比較をしたいと思います。

この項続く。

posted by たすけ at 2014年09月24日02:30 | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

下総國鰭崎邨古冢碑と流山市の森

下総國鰭崎邨古冢碑

鰭ヶ崎三本松古墳2014年9月02.JPG

三本松古墳の「下総國鰭崎邨古冢碑」の内容

『天明の飢饉の時、古墳を掘って財宝を掘り出し食べ物にかえてようとした村人がいたが、渡辺充房と寅の親子がこれをやめさせ、私財を投じて農民を飢えから救った。』

前記事からローラやふなっしー使っておちゃらけていますが...
変わりゆく流山の風景(景観計画)の現実に向き合わなきゃ!と。
2012年「街づくり委員会公募市民委員」に応募しましたが、二次面接で落ちました。
なので非公認キャラに、シンパシーを感じているなっしー♪...って。そんな事はどうでもいい(^^;)

1975(昭和50)年鰭ヶ崎駅付近01.jpg

40年前、1975年(昭和50年)私の高校時代の自転車通学路(ピンクのルート)
宮園団地は造成が始まったばかりですが、西平井はまだほとんど田んぼです。
...で、気がつくと思いますが、すでに西平井の台地は大きく削られています。

つくばエクスプレスと発展する流山市.JPG

これはTX(つくばエクスプレス)の線路ですが、TXと武蔵野線の共通点は、路線上に踏切がないことです。TXはトンネルと高架で、武蔵野線は切通しと盛土に電車を走らせています。
(新松戸付近からは高架になりますが。)

鰭ヶ崎三本松古墳が大きく削られてしまったのは、武蔵野線の盛土用に削られた?
多少はそれにも使われてたのでしょうが、宮園の造成(埋め立て)用に削られたのでしょう。
タラレバですが、もし当時より史跡保全の意識が高く厳格なルールを定めていたならば、これほどギリギリまで削られる事はなかっただろうし。
結果的に、武蔵野線開通が1500年以上保全されてきた古墳を破壊することになってしまいそうです。

1975(昭和50)年鰭ヶ崎駅付近02.jpg

でも、確かに。全てそう使われた訳ではないでしょうが・・・
1960〜70年代、武蔵野線の盛土用や宅地造成(=田んぼの埋め立て)に流山市内(西平井や鰭ヶ崎etc)の台地が削られていきました。
鉄道敷設では盛土方式の方が費用が安く、また武蔵野線は地盤のゆるい田園地帯を通るために高架より盛土方式を推進したようです。

小金高校

過去記事(2007年6月)に武蔵野線開通に関する記事を書いていますが、私が40年前に小金高校に通っていた頃は、新松戸駅前、南流山駅前には、な〜〜にもありませんでした。

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ちょうどいま、1675年(昭和50年)高校2年の時、クラスメイトが脚本・監督した自主映画のリメイク版を編集しているところなのですが、その中に東福寺の東斜面を削り取った崖(現グリーンハイツ流山の場所)と、南流山駅前が映っていますので、差し障りのない範囲で抜き出してみます。



見事にな〜んにもないでしょ?シーンの中には、私も映っています^^;
私自身、高校生の頃に史跡や森の保全に関心があった訳でなく、40年経って古墳がなくなるという事を伝え聞いて初めてこんな事を書いている訳ですが。

都市計画は50年スパンの話です。今開通した道路の中には昭和30年代に計画された道路もあるくらいです。行政は融通が利かないと言われがちですが、行政サービスは計画続行が至上命題です。50年前の計画が現実にそぐわなくなったら、計画変更や断念という形にせずに、いわゆる塩漬けにして何もしない・・・という方針を取ることはよくある事で。

何もしない間(=行政による買収が進まない間)に...ちょっとづつ、ちょっとづつ、虫食い状態で森が潰され宅地開発が進み、車1台がやっと通れる道で、しかも行き止まりばかり...なんていう宅地に柏市や松戸市で入り込んでしまう事があります。その点、流山市は開発が遅れたぶん、そういう箇所が両市に比べれば少ないほうです。

残したい流山の森.JPG

人口が増えれば緑を失っていく事は避けられないのですが・・・

絶対に残しておくべき森

そういう森は、行政や地主が守るのではなく、名義は地主さんでも所有者は市民全員。
...というコンセンサスが必要だと思います。

下総國鰭崎邨古冢碑の精神を、流山市と流山市民が引き継いだら・・・。

『平成の開発の時、已むに已まれず森を売り宅地にかえてようとした村人がいたが、流山市と流山市民がこれをやめさせ、知恵と市税を投じて村人と森を救った。』

「はぁ〜い!OK♪ いいカンジぃ♪ でも、よくわかんな〜い♪」 byローラ風味

タグ:鰭ヶ崎
posted by たすけ at 2014年09月25日00:00 | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

みりんの街ながれやま / 万上みりん(堀切家)と天晴みりん(秋元家)

本みりん各種.JPG

2014年、白みりん誕生200周年で盛り上がっている流山市と流川市...え?(笑)

みりんの街流山.JPG

みりんの街_流山駅.JPG

万上みりんと天晴みりん_02.JPG

みりんの街ながれやまには、万上みりんと天晴みりんの二大醸造元がありました。

万上みりんと天晴みりん_01.JPG

万上みりん当主は、代々、堀切紋次郎を襲名(現当主より襲名を廃止)
天晴みりん当主は、代々、秋元三左衛門を襲名(8代目より分家創設

万上みりん(堀切紋次郎).JPG

万上みりん.JPG

この2枚が万上みりん。この工場はまだ私の記憶にあります。

八百善と流山.JPG

おせち料理の黒豆作りに味淋は欠かせんが、その黒豆は江戸の高級料亭「八百善」が考案したもので、八百善に白みりんを提供していたのが相模屋(現在の万上みりん)という事を、高田 郁(かおる)原作の「みをつくし料理帖」で知りました。

天晴みりん(秋元三左衛門).JPG

天晴みりん.JPG

この2枚が天晴みりん。現在の一茶双樹館やケーズデンキの辺りです。
天晴みりん(本家)の工場跡は、三楽オーシャン→メルシャン→ケーズデンキと変遷。
分家は、杜のアトリエ黎明や、近藤勇陣跡の秋元酒店になっています。

流山本町まちなかミュージアム_02.JPG

流山本町まちなかミュージアム_03.JPG

流山本町まちなかミュージアム_04.JPG

流山市と万上みりんは、白みりん200周年を記念して、流山本町まちなかミュージアムを整備しましたが、そこにはちゃんと良きライバルであった天晴みりんの歴史についても説明しています。



流鉄流山駅では、今も昔も発車ベルと一緒に駅員が表に出て
「乗り遅れそうな人がいないか?確認してから電車を出発させます。」

ね?優しい心配りでしょ?
流山は今も昔も、そういう街なんです(^^)
posted by たすけ at 2014年10月12日02:21 | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大堀川源流の話(常磐高速の天井川)

大堀川源流の話で、流山市を流れる天井川について。
天井川とは、道路や鉄道の上の流れる川の事ですが・・・
流山市内の常磐高速は、騒音&排気ガス防止で、ほとんどがトンネル(半地下化)されています。

さて、トンネル工事は水脈を避けて掘ることが望ましいわけですが
宅地開発された場所は、低地(田や谷津)に盛土しているのでほとんど平坦な土地に変わっています。
また、小さな川はほとんど暗渠(蓋をかぶされている)ので、一見しただけではわかりません。

大堀川源流の話(1).jpg

これが、江戸川台〜初石付近を通る常磐高速のルートです。
手賀沼に注ぐ大堀川は、源流が合流する美田付近から一級河川

常磐高速は、ほぼこの地域の分水嶺に沿って伸びています。
トンネルは青田新田付近の大堀川源流(3)は避けています。
源流(1)と(2)は、間隔が狭いのでこの地図では省略し、1本に着色しています。
※⇒関東平野迅速測図

大堀川源流の話(2).jpg

これが、その水源付近の詳細図ですが・・・
源流(1)は、染み出る湧き水を受ける程度の非常に細い流路。
※野馬土手跡が切れる下流からは、排水路として少し太く・深くなります。
源流(2)の方は、排水路として、はじまりから大きく・深く作られています。

大堀川源流の話(3).jpg

大堀川源流の話(4).jpg

迅速測図に常磐高速を重ねた地図と、実際の航空写真。
ふれあい公園を挟んで・・・
暗渠化された、源流(1)(2)が常磐高速の天井川となって上を流れています。

大堀川源流の話(5).jpg

これが、源流(1)が上を流れるトンネル部分⇒google earthで見る

大堀川源流の話(6).jpg

これが、源流(2)が上を流れるトンネル部分⇒google earthで見る

・・・だから、何?
と言われも、困るのですが。

こうして、昔の地図と現代の便利な地図を組合せて見てみると
やっぱり千年単位で形成された地形(地勢)は、変えることはできないんだなぁ
と...感じたまでですf(^、^;

posted by たすけ at 2015年02月17日23:13 | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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